かつて札幌に存在した伝説のフリースペース「駅裏8号倉庫」について少々調べたのでまとめてみる。備忘ログ的なもんです。筆者は1982年生まれなので思い入れ等は一切御座いません。ご了承ください。
駅裏8号倉庫とは1981年9月から1986年4月まで運営されていたフリースペースである。通称「駅8(エキハチ)」。81年9月から82年9月までが第一期、ブランクを挟んで83年6月から86年4月までが第二期となる。
映画に演劇、バンド演奏や詩の朗読にフリーマーケット、政治討論会などとその用途は幅広く、当時の札幌の文化的中心地帯であった。
第一期駅8は札幌市中央区北6条西1丁目にあった拓殖倉庫の一部を改装したものである。キャッチコピーは「変幻自在の45坪」。現在この場所はJR線の高架が走っている。札幌駅高架化工事(1990年完了)は、既存線路の北側(裏側)に新しい線路を作り、移行後に駅ビル
を大幅に改築したので、周辺に当時の面影はほとんど残っていない。
現在の北6西1 写真中央あたりに倉庫群があった。
わずか1年という短い期間であったのも、札幌駅の高架化が既に決まっていた中での限定されたものだったからだ。当時使用された倉庫は、現在北海道開拓の村にて復元されている。
1983年、場所を変えて駅8が再始動する。第二期は北3条東3丁目のコマノ製綿倉庫。現サッポロファクトリーの近くである。この頃には全国的な注目を浴びるよう
になり、東京のアングラ路線の劇団などが舞台に立った。3年ほど続いた後、契約上の理由や周辺住民からの苦情、運営面での問題もあり86年4月に解散。ここに駅裏8号倉庫の歴史は幕を下ろす。
駅8運営スタッフはその後各々に活動を展開、今日の札幌アートシーンを形作った。シアターキノの代表中島洋氏もその一人である。
そもそもの発端は、当時劇団53荘という劇団の代表である植田研一氏が旗揚げ公演場所兼稽古場を探していたことに始まる。ここで植田氏のインタビューが読めるが、その中に当時の札幌の状況が見えてくる発言がいくつかあったので引用する。
創成川こえて東の方には行かないみたいなイメージがあるでしよう。
札幌で言えば中央区のとまん中にある様な劇場ってのはナイ訳だから。やっぱり、中央に全部集まっているという札幌の構造の問題になりますね。
だから、地下鉄ってのは意外とじゃましてるっていうか・・・まん中に集めるのを強化してる(笑)。地下鉄できる前の昔の札幌って、もう少し拡がりあったよね。
このインタビューは1981年のものであるため、今から35年近く前の話ということになる。彼が指摘している点については今も全然変わってないと思う。創成川以東が少し整備されたぐらいだろうか。
ちなみにインタビュー内に登場するライブハウス「ニワトリ」とは北海学園大学裏手の住宅地にあったブルース喫茶「神経質な鶏(1974~84)」のことであり、こちらも伝説的なスペースである。オーナーの梶原信幸氏は現在も狸小路にて「Mini Beg」を経営されている。
オープニング・イヴェント(原文ママ)の「33日間札幌一蹴」では33日分の公演が1,500円の通し券で全て観られるといった気合の入った企画であった。こ
ういったイベントが年に2回程度行われていたというのも今の時代には無いものだろう。1981年当時の1,500円は2015年現在だと2,000
円~2,500円ぐらいの価値だと思われる。
SAPPORO 1986 駅裏8号倉庫/RUST NEVER SLEEPS
ニューウェーブな音がなんだかカッコいい
近くて遠い30年前の札幌。ここにはかつて時代を変えようとしていた若いエネルギーが充満していたんだな、と札幌駅東口界隈を歩きながら見知らぬ過去に想いを馳せる。
なんかこのバンドいいっすね。PILみたい。女性メンバーって事でSavagesも似てる。
今だと地下鉄琴似にひっそりとある怪しいフリースペースが近いのかな。こういう暗くて怪しい施設は壊さず残してほしいな。他の記事で真駒内に変な貯水所があると読みましたけど、そういうエイリアンでも出そうな場所は大事よ。
試される金欠大地北海道、金儲けは必要だけどなんでもピカピカにすりゃいいってもんじゃない。デカダンスあって都市というのは形成されるんだから。
札幌は歴史が浅い割に、古いものを簡単に壊してしまうので、街の片隅にあるべき「胡散臭さ」や「危ない雰囲気」があまり無いですよね。
見通しが良くてクリーンなのは都市として誇るべきことなのかもしれないけれど、何だか情緒というものが希薄で、無機的に感じてしまう。