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20年ぶりのドラクエ3 再考 ドラクエの面白さとは

投稿日:2020年8月17日 更新日:

回顧主義者の妄言

 

 ふとしたきっかけからスーパーファミコン版ドラゴンクエストⅢを始めてしまった。

自分がプレイ経験のあるドラクエⅢは原作であるファミコン版とそのリメイク版であるスーパーファミコン版のみだ。
以降、多くの機種に移植やリメイクが出ているが触れたことはない。というか把握できていない。そもそもNintendo64以降の任天堂ハードを所持していないので関係ない話なんだけれども。

最後にドラクエⅢをプレイしたのはいつだろう。20年ぐらい前かな。スーファミ版に関しては、97年の夏に購入してから一周したのみだったと思う。ファミコン版は何周かした記憶はある。
大体にして僕はスーファミ版のドラクエⅢが大嫌いだったのだ。

リメイク嫌い

 本作が発売された1996年頃というのは様々な理由でゲーム史における一つの変革期だったんじゃないかなと思う。ゲームライターのさやわか氏も自著でそんなことを書いていた。
ハードの主流が16ビット機から32ビット機に乗り換えられる狭間の時期で、一部の格闘ゲームを除いて急速に2Dゲームが過去のものとなっていった。スーファミ末期に職人芸の域にまで達した超美麗なドット絵技術はハリボテのポリゴンに荒いテクスチャを張り付けた疑似3Dに取って代わられてしまう。
こうした変化を多くの人は好意的に受け止めていたみたいだけれど、僕はと言えばどうにも上手く飲み込むが出来ず、ゲームの未来に期待を持てなくなっていた。年齢的にもそろそろテレビゲームを卒業する分岐点にいたからかもしれない。それでも当時プレイステーションは買ったし、それなりに遊んではいた。スーファミ時代にあったゲームに対する熱量はもう無くなっていたけれど。

少し話が逸れたが、要するにゲーム史においてこの時期あたりを境に時代が変わったってことを言いたい。家庭でテレビゲームが普及する時代が終わって細分化の時代が始まったんだろう。そして当時の技術で過去の作品を作り直そうとする動きもよく見られた。
過去作を現代の技術でリメイクというのは時代が一つ次の段階へ進んだことの証拠だと思う。昭和から平成へ、20世紀から21世紀へ、そして平成から令和へ移行するたびに前時代のものが再評価される現象を見てきた。過去を顧みるのはいつも時代の分岐点なのだ。

さて、スーファミ版のドラクエⅢである。
本作は96年暮れに発売されたが、コンシューマのメインストリームはとっくに次世代機へ移っていた。何せFFⅦ発売の一月前なのだから。
スーファミを以てして”現代の最新技術でリメイク”ではない。もっともドラクエはⅣあたりから開発速度が鈍行運転なのが常だったので、結果的に96年末になってしまっただけなんだろうけれど。
それでもファミコン版と比較した場合、あらゆる面で進化していたのは確かで、当時発売されていた最新作と並べても全く遜色のないものだったはずだ。ただの思い出補正や歴史的な意義で評価するようなレベルのものではない。94年にスペースインベーダーをスーファミで出すのとはわけが違う。

だけど、僕はこのスーファミ版ドラクエⅢを受け入れることが出来なかった。
最初に感じたのは装飾過多だなということ。

本作は前年に発売されたドラクエⅥのエンジンを用いて作られている。旧エニックスという会社は開発部を持たずプランニングのみを行う会社なので、実際の製作は外注で行っていたのだけれど、その開発会社がⅤまでとⅥ以降で変わったのだ。チュンソフトからハートビートへと。(正確にはリメイクⅠ・Ⅱまで)
Ⅵを初めてプレイした時の強烈な違和感をよく覚えている。ドラクエっぽくないと思った。キャラのドット絵から音楽からモンスターデザインから何もかもが何かが違う気がしていた。プランナーは一貫してエニックスなので感触の違いでしかないんだろうけれど。(後から知ったがⅥのモンスターデザインは鳥山明以外のものが多分に含まれている)
リメイクⅢではその違和感がいくらか和らいでいた。単純に見た目以外はほぼファミコン版を踏襲してるわけだから、全く初めて触れたⅥとは条件が違うので比べ様が無いと言えばないのだが。

それでもリメイクで追加された新要素はどれもこれもドラクエⅢの世界を壊しているように思えた。「はがねのつるぎ」や「やいばのよろい」などとは響きの感触が異なる「ホーリーランス」や「バスターソード」といった横文字の武器防具。シリアスな雰囲気にそぐわない「おちょうしもの」「セクシーギャル」等の性格表記や、すごろく場。神龍とかいう超常の存在。神龍に関しては、ドラクエⅢの世界がゾーマによって精霊ルビスが封印された絶望の地という設定を根本から崩している。
こういったノリの違いというのはリメイクⅢ特有のものではない。Ⅵ以降のドラクエ全般に見られるもので、過去作にあった、最小限の温かみはありつつも感傷的で無骨なヒロイックファンタジーという側面は薄れ、おちゃらけた子供向けの要素が強くなっている(Ⅵの「うちゅうヒーロー」には目を疑った)。ファミコン時代及びチュンソフト時代には容量や技術的な理由によってそういった要素が盛り込めなかっただけかもしれないので、ドラクエを勝手にハードなファンタジーものだと認識してることがそもそもの間違いなのかもしれないが、プレイヤーとしては与えられたものでしか判断が出来ない。
このあたりはウィザードリィのカシナート(の剣)みたいなものです。製作者は最初からおふざけで作ってたけどプレイヤーが勝手にハードなイメージを持っちゃったって話。

※カシナートはアメリカで販売されていた調理用ハンドミキサー

そんな原理主義思想を引きずりつつ惰性でプレイした僕は神龍戦に惨敗してそのまま投げ出してしまった。

 

20年ぶりのリメイク版ドラクエⅢ

特に予定のない休日に早起きしてしまった。なんとなくいつか触るだろうと思い、手の届くところに置いていたスーファミとドラクエⅢを起動させてみる。
過去のデータを覗いて、ルーラで意味なく世界旅行して飽きたら電源を落とすという一連の儀式を行うつもりだった。

呪いのSEさえ鳴ることなくすべてのデータが消えている。サムチェックによる破損データ消去ではなく、本当の意味でデータが消えている。バッテリーバックアップの電池がもうないのかもしれないし、以前の起動で消えていたのかもしれない。

新たに冒険の書を作成する。もちろん自分の名前を入力するのだ。
当時は不必要なシステムだと感じていた性格診断に真剣に答える。診断結果が言いえて妙なものだったので少し悔しくなる。
16歳の誕生日の朝、母親に起こされる。自分が16歳だったころなんて思い出したくもない。
父親が有名なだけの16歳の子供の世界一周旅行に命を賭して同行する酔狂な冒険者を拾いに酒場へ行く。

武闘家・女 くろうにん
僧侶・女 がんばりやさん
魔法使い・女 おちょうしもの

名前は自分の中では統一性のあるもの。名前と性格の組み合わせだけでキャラが立っている気がしてくる。
おふざけ要素だと切り捨てていた性格システムに好感触を覚える。全員女の子なのは装備品で優遇されているから、ではなく、その方がモチベーションが上がるから。
性格はキャラクターの成長に影響を及ぼすもので、アイテムの使用で意図的に変更することが出来るが、装備品による一時的な変更を除いて性格を変えないようにプレイする。強いキャラクターを生成するために個性を殺すということをしたくない。

実は勇者、武闘家、僧侶、魔法使いのパーティを組んだのは今回が初めてだったりする。
大体は勇・戦・武・僧の物理攻撃重視で組んでいた。魔法使いはHPが低く、攻撃力が無く、有限のMPを消費しての行動がメインになるのがどうにも性に合わなかったのだ。
そもそも子供の頃は、そのエリアで買える最上級の武器防具を買い揃えるまで次へは進まず、攻略ガイドブック等に記されている適正到達レベルをしっかり守って石橋を叩くようなプレイをしていた。
今考えると何が楽しいのかわからない。
ドラクエはレベル制のため、ゲームとしての難易度はいくらでも下げられる仕様になっている。レベルを上げて物理で殴ればいいという言葉があるが正にその通りで、物理攻撃の通らないボスというのがいないからレベルを上げさえすればある程度は何とかなる。救済処置的な要素でもある。
事前の準備から耐性や属性を考えつつ攻撃の順番やタイミングまで計って進めるスクウェアのRPGとは根本的にモノが違う。と思っていたのだ。
しかしどうだろう。今回プレイしてみると魔法使い抜きで進めることがひどく困難に思える。
補助魔法はボス戦で使うものという考えがあった。貧乏性である。MPを消費することが悪手だと捉えていた。
ザコ戦でバンバン補助魔法を使って進めるのが定石のようなバランスになっていると気付く。
ボミオスやピオリムなんてどこで使うのかよくわからないが、スクルトとマホトーン、ヒャド無しで序盤を乗り切るのは相当にしんどいように思える。これらが無いと戦闘が長引くことが多い。過去の自分はどうやって砂漠を越えたんだろうか。逃げまくっていたのかな。
昔はただの障害でしかなかったザコ戦が楽しい。どうすれば効率的に損傷を抑えて敵を一掃できるかを新たなモンスターと遭遇するたびに考える。そのうちに自分の中でパターンが出来上がる。
効率的にザコ戦を消化できるので無駄にレベルを上げる必要が無く、ガイドブック等の適正レベルには到底及ばないながらも無理なく進んでいく。より強いモンスターと戦いたくなる。

装備品は数値的な強弱だけを基準に選ぶのではなく、名称から察するイメージを加味する。これはあくまで自己満足であって、ゲーム的には不利な側面が強いが、今このキャラクターはこういう格好をしているという想像上のビジュアルを大切にする。ドット時代のゲームの良いところの一つに、描写が過ぎないというのがある。ディスプレイ上に表示されているプレイヤーキャラクターのビジュアルはあくまで記号であって、断片的な記号を自分の頭の中で再構築する作業はゲームにハマるという点において非常に有効である。ゲームがどんどんビジュアル面を強化していく方向に進化していくことに懐疑的だったのは、想像の余地が無くなるのが嫌だったからかもしれない。当時の感覚はもう覚えていない。

相変わらず、すごろく場の存在は浮いているように思える。なのでスルーした。制作側が新しい遊び方の提案をしてくれている。受け入れられなければ無視すればいいのだ。

こういった緩い縛りを設けてプレイしてみると、当時は気が付かなかった面白さに遭遇する。

今になって分かったのは、当時はドラクエⅢの面白さが全然わかってなかったんだなということ。そしてスーファミ版は難易度を大幅に落とさない程度に快適なプレイ環境を付与していて、選択肢が増えた分だけ取捨選択する楽しみも増えている。
今では縛りプレイと呼ばれるものが珍しくはないし、他人のプレイスタイルを容易に見られる時代になった。自分のような温いプレイヤーから見ると信じられない縛りで遊んでいる人も沢山居て刺激になる。

プレイの方は、全員がレベル30を超え、僧侶と魔法使いのどちらを賢者に転職させようかと迷い、僧侶を賢者にしたバージョンと魔法使いを賢者にしたバージョンの2つのデータを作った。ひたすらガルナの塔でメタルスライムを狩ること数時間。賢者のレベルが20になった際のステータスを比べると、僧侶を賢者にしたパターンの方が戦力バランスが良いと判断した。

 

そしてその直後にデータが消えた。

 

休日を丸々つかって世界中を駆け抜けた冒険は、月曜日の訪れとともに一時中断となった。冒険の再開はまた週末に、と思っていた矢先の出来事だ。

推測だが、もうすでにバックアップ用の電池残量が無く、通電しているときと微かに電気が残っている状態でのみデータの保持が可能なようで、数日間放置すると消えてしまう様である。
その証拠に例のBGMも鳴らなかった。

ここで僕の冒険は終わってしまった。
それでも、充実した時間を過ごせたということは揺るぎない事実なのだ。
また数年後、今度はデータの消失に怯えない環境でプレイしたいと思った。

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