ガンプラについて考えてみる。
昔よく作ってたわけです。もう何年もご無沙汰ですけどね。当時はHGUCとかMGあたりをちゃんとエアブラシで塗装してたわけです。めんどくさいですね。今なら金もらってもやらないね。長時間拘束のトランプタワーみたいなもんです。
小学校低学年の時にミニ四駆、SDガンダムBB戦士等で模型バージンを散らした僕は、その後10年近く模型と無縁の生活を送っていました。出戻り再デビューの契機となったのは大学入学後所属した美術部でした。
美術部なので画材は腐るほどあるわけです。実際一部腐ってましたが。
大学の近所に当時ギリギリ存続していた潰れそうな模型屋がありまして、先輩たちとノリでいくつかのキットを買って帰りました。買ったのは旧キットと呼ばれる300円前後で手に入るモデルです。機動戦士ガンダムが放映されていた当時から延々再発売されているもので、モナカのような構造で関節もあまり動かず色も単色のチープなものでした。
その当時すでにMGは店頭に並んでいましたが興味を引かれることなく、僕らはこの「子供のおもちゃ」然としたキットで目を輝かせて遊びました。大学生なのに。
画材でセーラー服風の塗装をされたジム、アニメの名場面を再現しようとドライヤーで熔かされてプラスチックの団子になったガンダム、パテで作った部員の頭を乗せられたドムの胴体、爆竹で四散したギャン・・・。
これらは模型を冒涜していると言われても仕方がない遊び方です。でも当時は最高に楽しく、日々どうやって既成概念を逸脱しようか思念しておりました。
月日が流れ、いつの間にか僕は雑誌の作例(の様なもの)を目指す方向へシフトしていき、必要な道具を揃え時間と金と根気を消耗して元から出来の良いキットをそれなりに作って満足しているような人間になっていました。そして飽きてしまいました。
と、まあ、この話は私個人の思い入れ云々の話なのでどうでもいいのですが、もう一点思うことがあるわけです。プラモデルを組む意味がわからないということです。
プラモデル、特にガンプラの技術の進歩は目覚ましく、前述の「旧キット」と最新のキットを比べると同じジャンルのものだとは思えないほどの格差があります。しかしいまだにパッケージを開けるとランナーに繋がったパーツががあり、それを切り離して組み上げて作っていくという点は変わりません。塗装も全くする必要がないほど色分けがなされており、稼働域も出来あいのフィギュアを超えるようなものがあります。
これを自分で組む必要があるのだろうか。ただ組むだけなら誰がやっても同じように同じ品質のものが出来る。出来の悪いキットを技術で作り上げるといった楽しさは損なわれ、あるのは所有欲やデザインに対する愛着がほとんどであり、自ら作る音に楽しさを感じている人(子ども)はごく少数ではないのかと感じてしまいます。出来あいのプラスチックフィギュアを製造販売する技術があっても、それを無理矢理ばらしてジグソーパズルのようなものとして売るということの意味合いがわからなくなってきました。
プラモデル作るのが楽しいと思えたのはどの瞬間だったのかなと、今では思い起こすこともなく部屋の隅に積まれた箱を眺めています。
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