2016年はドラゴンクエスト生誕30周年ということなので、個人的にも思い入れが深いドラクエについて何か書いてみようと思った次第。
ドラクエ1の発売が1986年の5月だから11月に書いても今更感が強いのは否めないけども。
さて、生誕30年なんて書いてますけど、個人的にはそのうちの半分ぐらいしかドラクエには触れてないわけです。
時系列でいくと、リアルタイムで最初に触れたのはドラクエ5で最後に触れたのが8です。
我が家の教育方針的に、両親はテレビゲームに対して理解を示さなかったので、ファミコン、スーファミの導入が同年代の子供たちに比べ大幅に遅れており、その分ドラクエ初体験も遅いものとなったのでした。その以前から友人宅でプレイを眺めてはいたけれども。
発売日に並んで買ったのは6と7のみ。店頭に並んで買うってこと自体がもうプレイの一環というか儀式的な意味を持っていたような気がします。
7は購入直後こそ熱心に遊んでいた記憶があるけれど、たぶんDisc2に入る前に辞めてしまったと思う。そのころ既に高校3年ぐらいだったので、もうゲーム熱がさっぱりなくなっておりました。
8に至っては購入したのが発売から4年後ぐらいで、たぶん3時間ぐらいしか触っていません。
9以降は現物を見たことすらないです
そんな程度のドラクエファンです。
オリジナルの1~6までは一通りプレイ経験があり、リメイク作品では1・2と3はプレイしています。
その中でも思い入れが強いのはファミコン版3とスーファミ版5です。
今回はドラクエと日本のゲームの歴史についてちょっと書いてみたいと思います。
前置き終わり。
どうしてってそりゃあゲームだからだろって話なんだけども、そんなこと言いたいわけじゃない。
ゲーム開始までその主人公は何をしていたんだとか、ゲーム開始時点をレベル1に設定してるだけだろって話でもないです。
何が言いたいのかって言うと、ドラクエ1が世に出た時に、どういった受け入れられ方をしたんだろうってことです。
ドラクエシリーズにおいて、多くの場合、まずはじめに冒険の目的が示される。
1なんかすごくわかりやすくて、スタート地点の城を出ると対岸に竜王の城が見える。
ああ、あれが倒すべき敵の居城だなとわかるわけです。
2以降は、所在はわからないまでもラスボスの名前は最序盤で示されて、その討伐に向けて旅立つという構図は変わりません。
だから何の知識も無いプレイヤーでもゲームの最終的な目的は理解できる。
そこで問題なのが出発時点では到底ボスを倒すことが出来ない ということです。
弱い。あまりにも貧弱すぎる。開始二分で即死も別に珍しくないわけです。玄関開けたら二分で葬式です。
ここでこのゲームの二つ目の目的が示されます。
キャラクターを強化する。ということです。
どこにいるのかわからない悪の親玉を探しつつ、それを凌駕するフィジカルや装備を手に入れなければならない。
成長しなければならない。
ゲームの構造上、目の前のイベント消化や、可能なエリアの移動を繰り返すことで必然的にラスボスには辿り着くようになっており、その道程で敵とは対等に渡り合える強さを自然に手に入れている。
その辺りのバランスが秀逸だったためにドラクエは多くのプレイヤーに愛されたんだと思っています。
しかしこのキャラクターが成長するという概念は、実は当時としては非常に珍しいものだということを理解しなければならないわけです。
ドラクエ1以前に発売されたファミコンソフトで主人公が成長するというシステムを用いたものはなく、アイテムによる一時的なパワーアップというのが主流でした。ドラクエ以前にメインを張っていたジャンルであるシューティングやアクション(横スクロール) のゲーム性を考えると当然なんですけども。しかもその多くは1ミスで初期状態に戻るというものがほとんどであり、基礎パラメータが上昇していくというものは存在しません。
例えばドルアーガの塔(AC版84年7月)では主人公ギルはアイテムを入手することで強化されていきますが、1ミスで初期状態に戻る。
ゼルダの伝説(FCDS版86年2月)ではアイテムによってライフの最大値が増えるが、それ以外の成長は無し。
経験値によるレベルアップはドラクエ後のワルキューレの冒険(86年8月)まで登場しません。
もちろん経験値によるレベルアップ制がドラクエによって発明されたものでないことは周知のとおりです。
ドラクエの直接的なルーツでありコンピュータRPGの礎的作品ウィザードリィ(AppleⅡ版1981年)にて世に出ております。
「ファミコンで」という部分が大事なんです。当時ゲーミングPC(マイコン)なんてもってるジャリなどマイノリティなんてレベルじゃないだろうから。
大友克洋の確立した表現技法を少年漫画の中に落とし込んだ鳥山明みたいなことです。(蛇足)
今みたいに何でもビジュアルで説明してくれる環境の無い時代、ゲームは目の前に出されるものに想像力の付加が必要不可欠でした。
今のゲームは映画やアニメっぽいけれど、昔のゲームは活字っぽい印象を持ちます。
ファミコン以前はそれこそ文字しかないのが普通だったりしますし。
目の前に示されている情報は記号であって、それが全てじゃない。
操作するキャラクターと街を表現するグラフィックのサイズが同じでも、人間と街が同じ大きさだとは誰もおもわないでしょう。
だからリアリティの一切ないドットの塊をながめながらも脳内では壮大な冒険活劇を感じられたわけです。
そこで考えるのがある程度のリアリティと進行の必然性。
レベル1とレベル50のキャラクターの強さの比は歴然とあるわけだけど、作品世界内の人間の範疇を超えてはいないはずです。
血筋というのは確かにあって、ほとんどの主人公は何かしらのバックボーンを持ってはいるけれど、誰もかれも超人ではなく、勇敢さこそ認められるものの普通の人間のはずです。
ルイーダの酒場に集まる者たちなんかはただの冒険者です。
旅立ちの時に、そこらに生息するナメクジやらネズミやらに半殺しされながらも、世界を手中に収めんとするほどの強大な魔王の討伐に向かえるメンタリティの正体は自分(プレイヤー)が成長することを確信しているからです。メタな見方ですけども。
現実世界では、所在の分からないものの討伐を目指して旅立つというシチュエーションにリアリティがないため、この辺のリアルさはまるまる無視されている風潮があるけれど、真面目に考えると結構酷い話だなと。
まあ、ラスボスのパラメータ設定が主人公のレベル1状態と比べて異常なだけかもしれないけどね。
これはゲーム的な都合。
ファミコンにおけるドラクエ以前のゲームでは、ラスボスの元に辿り着きさえすれば初期状態であっても撃破が可能なものが主流派です。(スーパーマリオブラザーズ等)
というか普通の発想ではこういうスタイルの方が先に出てくるのは当たり前だよなと。人間はそんなに変わらない。
成長しなければならないがために、非常に遠回りをしてボスのもとへ辿り着かなければならない。
これは結構不思議な作りなんじゃないかなと思うわけです。
自身を鍛えるために旅をしてるわけではなく、世界の混乱の元を探しだして倒すことが物語上の目的なのだから。
ここでリアリティというものを一旦捨てています。そもそもそんな概念は初めから持ち合わせていないんでしょうが。
日本国内ではドラクエ型のRPGが数多く世に出た後に、一本道ではないフリーシナリオタイプのものが出てきます。ロマンシング・サガです。
実はこっちの方がウィザードリィから派生したであろうRPGの型としては自然な感じがします。
割と早い段階でラスボスを拝めるけれど、勝てないので放浪するというスタイル(ロマサガはちょっと違うけど)。
しかしこのスタイルはゲームの敷居の高さがグンと上がる。
結果論ですけど、やはり黎明期においては手とり足とり揺りかごから墓場まで一貫して誘導していくスタイルが必要だったわけです。
そしてそこでストーリーというものが必要になり、主人公≠プレイヤーではないJRPGというキャラクターやストーリー重視のガラパゴス的な進化を遂げていったんでしょう。
ドラクエの主人公がレベル1で旅立つのは最終的にはラスボスと対等に渡り合う強さを持てるということをプレイヤーが知っているからです。
そしてそういったキャラクターが成長するという概念を違和感なく定着させたのはドラクエなんじゃないかなというお話。
長くて何が言いたいのかよくわからなくなってしまった。
続くよ。